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第11話  月曜日の送信ボタン

last update Veröffentlichungsdatum: 04.09.2026 19:00:17

 月曜日の朝、六時半に目が覚めた。

 達哉はまだ眠っている。規則的な寝息が、部屋の奥から聞こえてくる。

 沙耶はそっとベッドを抜け出した。いつものように、キッチンへ向かった。いつものように、コーヒーを入れた。でも今朝は、コーヒーカップを持ったままソファに座る前に、一度スマートフォンを手に取った。

 土曜日に書いた、あの文章がある。

 送信ボタンの手前で止まったまま、下書きフォルダに入っている。

 沙耶は画面を開かずに、スマートフォンをテーブルに置いた。

 まず、コーヒーを飲もう。

 それだけを決めた。

 窓から入ってくる光は、土曜日より少し白かった。月曜日の朝の光は、なぜかいつも少し硬い気がする。今日から一週間が始まる、という緊張を、空気が知っているのかもしれない。

 コーヒーを半分飲んだところで、沙耶はスマートフォンを取り上げた。

 下書きフォルダを開いた。

 土曜日に書いた文章が、そのまま残っている。

 佐伯様

 お世話になっております、岸谷です。

 ご連絡ありがとうございます。

 現在、他の案件が重なっており、

 佐伯様のご要望に十分にお応えできる状況ではないと判断しました。

 誠に申し訳ございませんが、今回は辞退させていただけますでしょうか。

 ご不便をおかけして、大変申し訳ございません。

 岸谷沙耶

 読んだ。

 土曜日に読んだときと、同じ文章のはずだった。でも今朝は、少し違って見えた。

 謝りすぎている。

 「誠に申し訳ございません」「ご不便をおかけして、大変申し訳ございません」。断りの文章の中に、謝罪が二回入っている。謝らなくていい、とは言えない。迷惑をかけているのは事実だ。でも──これは、何に対して謝っているんだろう。

 断ることに、謝っている気がした。

 断ること自体が悪い、という前提で書いている文章だった。

 沙耶はしばらく画面を見つめた。

 文章を、少し直してみた。

 佐伯様

 お世話になっております、岸谷です。

 ご連絡ありがとうございます。

 現在、他の案件との兼ね合いで、

 佐伯様のご依頼に誠実にお応えできる状況にないと判断しました。

 大変恐れ入りますが、今回はお受けすることが難しい状況です。

 ご検討いただいていたところ、このようなご連絡となり申し訳ございません。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 岸谷沙耶

 読み返した。

 今度は、少しだけ違う。断ることへの謝罪ではなく、状況への説明になっている。

 完璧ではないかもしれない。でも、これでいい気がした。

 送信ボタンの上に、指を置いた。

 土曜日と同じ場所に、また来た。

 心臓が、また少し速くなる。たかがメール一通だと、今朝もわかっている。それでも重い。この重さは何なんだろう、と沙耶は思った。

 佐伯が怖いわけではない。断ることで何か大きな損失があるわけでもない。それでも指が止まるのは──断るという行為そのものが、まだ沙耶の中で「許可されていない」からかもしれなかった。

 誰に許可をもらうんだろう。

 その問いが、ふいに浮かんだ。

 達哉? 紹介元のクライアント? 佐伯本人?

 誰でもない。

 沙耶は自分で、自分に許可を出していなかった。

 奥の部屋から、達哉の気配がした。

 寝返りを打つ音。まだ起きてはいないけれど、もうすぐ起きるかもしれない。

 沙耶は画面を見た。

 送信ボタンの上に、指がある。

 今だ、と思った。

 理由はなかった。ただ、今だと思った。

 押した。

 画面が切り替わった。「送信しました」という小さな表示が出て、消えた。

 それだけだった。

 劇的なことは、何も起きなかった。部屋の空気が変わったわけでも、光が差し込んできたわけでもない。スマートフォンの画面は静かで、コーヒーはまだテーブルにあって、奥からは達哉の寝息が聞こえている。

 何も変わっていない。

 でも。

 沙耶はスマートフォンをテーブルに置いて、コーヒーを一口飲んだ。

 ──息ができる。

 土曜日に佐伯のメールを切ろうとして切れなかったとき、「不思議と息ができた」という感覚を想像していた。でも実際に送信ボタンを押したあとの感覚は、想像よりずっと静かだった。

 大きな解放ではない。ただ、詰まっていた何かが少しだけ通った、そういう感じ。

 喉の奥に引っかかっていた小さな骨が、するりと取れたような。

 沙耶は窓の外を見た。空は曇っている。特別きれいな朝ではない。でも悪くなかった。

 達哉が起きてきたのは、それから二十分後だった。

 「コーヒー、ある?」

 いつもの、月曜日の朝。

 「入れるよ」と沙耶は答えた。

 キッチンに立ちながら、今朝のことを頭の片隅で確認した。送信した。佐伯への断りのメールを、送信した。文章を三回書いて、送信ボタンの前で二回止まって、三度目に押した。

 達哉はダイニングチェアに座って、スマートフォンを開いている。

 「今週、忙しい?」と達哉が言った。

 「そこそこかな。神崎さんの案件が今週中に」

 「ふうん」

 それだけだった。興味はない、という返事。

 一年前の沙耶なら、もう少し詳しく話しただろう。認めてもらおうとして、わかってもらおうとして。でも今朝の沙耶は、「そこそこかな」で終わりにした。

 コーヒーをカップに注いで、達哉の前に置いた。

 「ありがとう」という言葉はなかった。

 沙耶は自分のカップを持って、ソファに戻った。

 午前中、神崎への修正データを最終確認した。

 細かい調整が三カ所あった。フォントのウェイト、余白のバランス、カラーコードの微修正。一つずつ丁寧に直して、確認用のPDFを書き出した。

 送る前に、もう一度全体を見た。

 いい仕事だと思った。

 自分の仕事を「いい」と思うことが、以前は難しかった。完成しても「もっとできたかもしれない」「これで本当に大丈夫か」という不安が先に来た。でも今朝仕上げたこれは、素直に、いい仕事だと思えた。

 理由を考えた。

 神崎が「予想をはるかに超えていました」と言った。彩乃が「あなた、すごい人じゃないですか」と言った。母が「ちゃんと見てるからね」と言った。

 外から言葉をもらって、少しずつ、自分の仕事を見る目が変わってきているのかもしれない。

 沙耶は神崎宛のメールを書いた。

 修正データを添付して、「ご確認いただけますでしょうか」と送った。

 今度は、迷わず送信できた。

 昼過ぎ、佐伯から返信が来た。

 画面に名前が出た瞬間、胸が少し固くなった。何が来るだろう。怒っているかもしれない。「途中で放り出すのか」と言われるかもしれない。

 開いた。

 そうですか。わかりました。

 他を当たります。

 それだけだった。

 沙耶は画面を見つめた。

 怒っていない。「そうですか」で終わっている。思っていたより、ずっとあっさりしていた。

 もちろんいい印象は残らないかもしれない。でも──世界は終わらなかった。紹介元への連絡は必要かもしれないが、それは別の話だ。今日の沙耶には、それで十分だった。

 スマートフォンを置いた。

 窓の外を見た。午後の曇り空は、朝よりも少し明るくなっている。

 沙耶は、小さく息を吐いた。

 夕方、神崎から返信が来た。

 「確認しました。完璧です。今週中にフィードバックをまとめてお送りします」

 完璧です。

 その二文字を、沙耶は二回読んだ。

 過剰な褒め言葉には聞こえなかった。神崎の言葉はいつも、必要な分だけ言って、余計なことは言わない。だから「完璧です」という短い言葉が、むしろ重かった。

 沙耶はラップトップを閉じた。

 今日はここまでにしよう。

 その判断が、また自然にできた。

 夜、布団に入りながら、今日一日を振り返った。

 佐伯への断りのメールを、送った。

 神崎への修正データを、仕上げた。

 「完璧です」という言葉を、もらった。

 そして──「断ること」に、謝らなかった。厳密には謝罪の言葉を入れたけれど、断ること自体を詫びる文章にはしなかった。

 小さな違いだ。でも沙耶には、その違いがわかった。

 目を閉じた。

 達哉の寝息が聞こえている。変わらない音。変わらない部屋。

 でも今朝の沙耶は、送信ボタンを押した。

 それは昨日までの沙耶には、できなかったことだ。

 次は何だろう、と思った。

 怖いような、少し楽しみなような。

 その二つが同時にある感覚が、沙耶にはまだよくわからなかった。

 でも、悪くない感覚だと思いながら、目を閉じた。

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