ANMELDEN月曜日の朝、六時半に目が覚めた。
達哉はまだ眠っている。規則的な寝息が、部屋の奥から聞こえてくる。 沙耶はそっとベッドを抜け出した。いつものように、キッチンへ向かった。いつものように、コーヒーを入れた。でも今朝は、コーヒーカップを持ったままソファに座る前に、一度スマートフォンを手に取った。 土曜日に書いた、あの文章がある。 送信ボタンの手前で止まったまま、下書きフォルダに入っている。 沙耶は画面を開かずに、スマートフォンをテーブルに置いた。 まず、コーヒーを飲もう。 それだけを決めた。 窓から入ってくる光は、土曜日より少し白かった。月曜日の朝の光は、なぜかいつも少し硬い気がする。今日から一週間が始まる、という緊張を、空気が知っているのかもしれない。 コーヒーを半分飲んだところで、沙耶はスマートフォンを取り上げた。 下書きフォルダを開いた。 土曜日に書いた文章が、そのまま残っている。 佐伯様 お世話になっております、岸谷です。 ご連絡ありがとうございます。 現在、他の案件が重なっており、 佐伯様のご要望に十分にお応えできる状況ではないと判断しました。 誠に申し訳ございませんが、今回は辞退させていただけますでしょうか。 ご不便をおかけして、大変申し訳ございません。 岸谷沙耶 読んだ。 土曜日に読んだときと、同じ文章のはずだった。でも今朝は、少し違って見えた。 謝りすぎている。 「誠に申し訳ございません」「ご不便をおかけして、大変申し訳ございません」。断りの文章の中に、謝罪が二回入っている。謝らなくていい、とは言えない。迷惑をかけているのは事実だ。でも──これは、何に対して謝っているんだろう。 断ることに、謝っている気がした。 断ること自体が悪い、という前提で書いている文章だった。 沙耶はしばらく画面を見つめた。 文章を、少し直してみた。 佐伯様 お世話になっております、岸谷です。 ご連絡ありがとうございます。 現在、他の案件との兼ね合いで、 佐伯様のご依頼に誠実にお応えできる状況にないと判断しました。 大変恐れ入りますが、今回はお受けすることが難しい状況です。 ご検討いただいていたところ、このようなご連絡となり申し訳ございません。 どうぞよろしくお願いいたします。 岸谷沙耶 読み返した。 今度は、少しだけ違う。断ることへの謝罪ではなく、状況への説明になっている。 完璧ではないかもしれない。でも、これでいい気がした。 送信ボタンの上に、指を置いた。 土曜日と同じ場所に、また来た。 心臓が、また少し速くなる。たかがメール一通だと、今朝もわかっている。それでも重い。この重さは何なんだろう、と沙耶は思った。 佐伯が怖いわけではない。断ることで何か大きな損失があるわけでもない。それでも指が止まるのは──断るという行為そのものが、まだ沙耶の中で「許可されていない」からかもしれなかった。 誰に許可をもらうんだろう。 その問いが、ふいに浮かんだ。 達哉? 紹介元のクライアント? 佐伯本人? 誰でもない。 沙耶は自分で、自分に許可を出していなかった。 奥の部屋から、達哉の気配がした。 寝返りを打つ音。まだ起きてはいないけれど、もうすぐ起きるかもしれない。 沙耶は画面を見た。 送信ボタンの上に、指がある。 今だ、と思った。 理由はなかった。ただ、今だと思った。 押した。 画面が切り替わった。「送信しました」という小さな表示が出て、消えた。 それだけだった。 劇的なことは、何も起きなかった。部屋の空気が変わったわけでも、光が差し込んできたわけでもない。スマートフォンの画面は静かで、コーヒーはまだテーブルにあって、奥からは達哉の寝息が聞こえている。 何も変わっていない。 でも。 沙耶はスマートフォンをテーブルに置いて、コーヒーを一口飲んだ。 ──息ができる。 土曜日に佐伯のメールを切ろうとして切れなかったとき、「不思議と息ができた」という感覚を想像していた。でも実際に送信ボタンを押したあとの感覚は、想像よりずっと静かだった。 大きな解放ではない。ただ、詰まっていた何かが少しだけ通った、そういう感じ。 喉の奥に引っかかっていた小さな骨が、するりと取れたような。 沙耶は窓の外を見た。空は曇っている。特別きれいな朝ではない。でも悪くなかった。 達哉が起きてきたのは、それから二十分後だった。 「コーヒー、ある?」 いつもの、月曜日の朝。 「入れるよ」と沙耶は答えた。 キッチンに立ちながら、今朝のことを頭の片隅で確認した。送信した。佐伯への断りのメールを、送信した。文章を三回書いて、送信ボタンの前で二回止まって、三度目に押した。 達哉はダイニングチェアに座って、スマートフォンを開いている。 「今週、忙しい?」と達哉が言った。 「そこそこかな。神崎さんの案件が今週中に」 「ふうん」 それだけだった。興味はない、という返事。 一年前の沙耶なら、もう少し詳しく話しただろう。認めてもらおうとして、わかってもらおうとして。でも今朝の沙耶は、「そこそこかな」で終わりにした。 コーヒーをカップに注いで、達哉の前に置いた。 「ありがとう」という言葉はなかった。 沙耶は自分のカップを持って、ソファに戻った。 午前中、神崎への修正データを最終確認した。 細かい調整が三カ所あった。フォントのウェイト、余白のバランス、カラーコードの微修正。一つずつ丁寧に直して、確認用のPDFを書き出した。 送る前に、もう一度全体を見た。 いい仕事だと思った。 自分の仕事を「いい」と思うことが、以前は難しかった。完成しても「もっとできたかもしれない」「これで本当に大丈夫か」という不安が先に来た。でも今朝仕上げたこれは、素直に、いい仕事だと思えた。 理由を考えた。 神崎が「予想をはるかに超えていました」と言った。彩乃が「あなた、すごい人じゃないですか」と言った。母が「ちゃんと見てるからね」と言った。 外から言葉をもらって、少しずつ、自分の仕事を見る目が変わってきているのかもしれない。 沙耶は神崎宛のメールを書いた。 修正データを添付して、「ご確認いただけますでしょうか」と送った。 今度は、迷わず送信できた。 昼過ぎ、佐伯から返信が来た。 画面に名前が出た瞬間、胸が少し固くなった。何が来るだろう。怒っているかもしれない。「途中で放り出すのか」と言われるかもしれない。 開いた。 そうですか。わかりました。 他を当たります。 それだけだった。 沙耶は画面を見つめた。 怒っていない。「そうですか」で終わっている。思っていたより、ずっとあっさりしていた。 もちろんいい印象は残らないかもしれない。でも──世界は終わらなかった。紹介元への連絡は必要かもしれないが、それは別の話だ。今日の沙耶には、それで十分だった。 スマートフォンを置いた。 窓の外を見た。午後の曇り空は、朝よりも少し明るくなっている。 沙耶は、小さく息を吐いた。 夕方、神崎から返信が来た。 「確認しました。完璧です。今週中にフィードバックをまとめてお送りします」 完璧です。 その二文字を、沙耶は二回読んだ。 過剰な褒め言葉には聞こえなかった。神崎の言葉はいつも、必要な分だけ言って、余計なことは言わない。だから「完璧です」という短い言葉が、むしろ重かった。 沙耶はラップトップを閉じた。 今日はここまでにしよう。 その判断が、また自然にできた。 夜、布団に入りながら、今日一日を振り返った。 佐伯への断りのメールを、送った。 神崎への修正データを、仕上げた。 「完璧です」という言葉を、もらった。 そして──「断ること」に、謝らなかった。厳密には謝罪の言葉を入れたけれど、断ること自体を詫びる文章にはしなかった。 小さな違いだ。でも沙耶には、その違いがわかった。 目を閉じた。 達哉の寝息が聞こえている。変わらない音。変わらない部屋。 でも今朝の沙耶は、送信ボタンを押した。 それは昨日までの沙耶には、できなかったことだ。 次は何だろう、と思った。 怖いような、少し楽しみなような。 その二つが同時にある感覚が、沙耶にはまだよくわからなかった。 でも、悪くない感覚だと思いながら、目を閉じた。十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見
珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残
誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ
父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚
画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」
思ったのは、特別な瞬間ではなかった。木曜日の午後、寝室の隅のデスクで作業をしていたときだった。神崎から送られてきたブランドの資料を開いて、コメントを書き込もうとした瞬間、達哉が部屋に入ってきた。「あ、ごめん、邪魔した?」「大丈夫」と沙耶は答えた。 達哉は特に何をするわけでもなく、クローゼットから何かを取り出して、また出ていった。それだけのことだった。 でも沙耶は、達哉が入ってきた瞬間に画面から目が離れたことに気づいた。集中が、糸を切られたように途切れた。達哉が何も言わなくても、その気配だけで、沙耶の思考は一度止まった。 作業部屋があったら、と思った。思ってから、その考えが思ったより自然に出てきたことに、少し驚いた。その夜、夕飯の片付けが終わった後、沙耶は達哉に話した。「ねえ、ちょっといい?」「なに」達哉はソファに座ったまま、スマートフォンを置いた。話を聞く体勢になった。それは悪くない兆候だった。「仕事部屋、作ってもいいかなって思って」「仕事部屋」「今、寝室のデスクで作業してるんだけど、集中できなくて。納戸を片付けたら、デスクくらい置けるんじゃないかと思って」達哉は少し考えるような間を置いた。「どこに作るって?」「納戸」「俺の荷物があるけど」「片付けるの、手伝うよ。段ボールに入れて、押し入れに移せば──」「別に今のままでいいじゃん」それで、終わった。







